日常の中の光に気づいて、それを広げて
器の漆つぎ*chiho 1979年生まれ、鹿児島市出身。鹿児島市谷山在住。 【ご挨拶:器の漆つぎ、修行中。】→★(click!) ●修繕完了品の一覧は、こちら→★(click!)からどうぞ! <連絡先メールアドレス>urushitsugi☆gmail.com(☆部分を@マークに書き換えて送信ください。) |
2011年03月17日
東日本大震災について、日の浅い頃、私が思ったことは、記事「不安を祈りに」に書かせていただきました。
読んだ方の反響もいただき、ありがとうございます。
今でもずっと「不安の津波」ではなく、「光の気持ち」を持ち、日々を送ろうと、日常の仕事も、修繕作業も続けています。
何より、自分自身や、身近な家族から、希望や光ややすらぎの気持ちを大切にしよう、そこから広げていこう、と意識することに、あえて最大のエネルギーをさいています。
そこがすべての始まりだと思うので。
今日になって思うのは、
まず、継続的支援について。
日本人のすばらしさを賞賛するニュースは、元気と勇気と希望を与えてくれます。
また、とくに雪に耐えて勤勉で我慢強いといわれる東北地方の方々に、同じ日本人として敬意を表しますし、ほんとうは泣き叫びたい気持ちがあることも、分かっています。
いつか、思いっきり、泣けたらいいのに、甘えられたらいいのに、と思います。
あったかいご飯が欲しいよぅ、寒いよぅ、家族を返してよぅ、と。
ほんとうに、抱きしめてあげられるものなら、抱きしめてあげたい。
日本のみならず世界中の隣人たちのあたたかさを感じるし、こういう形ではありますが、協力しあえることは、みんなの意識に対しておおきな影響を与えると思うのです。
戦争と違って、表面上加害者はいませんから、人間同士ならば何のわだかまりもなく協力することができます。
日本人の素晴らしき礼節。
でも、もうひとつ忘れがちなのは、日本人の熱しやすく冷めやすさ。
もう大方の日本人が、新燃岳での被災者のことは、忘れているのではないでしょうか?
鳥インフルエンザや口蹄疫はどうでしょうか?
この混乱期を好機とみなして、裏を知ったらびっくりするようなCMや、さまざまなビジネスがうごめいていることに、みなさん、気付いているでしょうか?
1週間、2週間、1カ月、3カ月。
その期間は、非被災者の日本人が忘れていくのに十分な期間です。
また、そこでひと儲けする業者もたくさん。
寄付はすばらしいし、結果として腐らないお金、というのは、長期的なすばらしい援助になります。
が、一方では、大企業の節税対策という面もありますので、その差引をして、考えなくてはいけないことなのです。
通常、寄付をすると、その分が企業の所得から控除され、つまり、寄付しただけ来年、税金が引かれずに済むんですね。
もちろん企業はこれから混乱するであろう経済状況から、その損得を勘定しているので、あれだけ大規模な寄付ができます。
もちろん、イメージ的なこともありますし。
ただ、その手を使って物資を梱包している社員の方々は、ただただ純粋に、私たちと同じ気持ちで祈りを込めているんだろうと思います。
運ぶ人たちの命がけの様子も想像できます。
結果、大企業の寄付で、企業も被災者も両方ハッピーになれれば、とてもステキなシステムなんですけどね。
そしてさらに先を見据えると、それだけ来年度、大企業が寄付した分、国が税金を徴収できなくなるわけです。
復興に莫大な費用がかかるというのに。
そのために紙幣を増刷しているというのに。
それはただお金が増える~♪という話ではありません。
世の中にお札が増えるほど、一枚当たりのお金の価値が下がります。
ごく簡単にたとえれば、今まで1000円で買えていたお米が、1000円では売ってもらえなくなります。そんな価値のなくなった1000円ぐらいじゃ、この米とは換えてやれないね!となり、いくら給料があがっても、お米代が出せない、そんな感じです。(すごくオーバーなたとえです。こんな状況は回避されると思います。言いたいのは、お金が増える~♪ではない、ということだけです)
それは、国内だけのことではなくて、世界的な経済にも波及します。
国や日銀は、とりあえず増札しましたが、これからその問題にも政治経済的に対処しなくてはいけません。
モノやお金の価値を上下させるのは、経済的な混乱のリスクを大きく抱えた非常手段です。
後々の対処が必要です。
もちろん被災者からは税を徴収している場合ではありません。
通常保険適用外の地震災害ですが、特例で保険金も支払われるようです。
被災者の方々には、ほんとに助かる英断だと思いますが、その財源は、保険会社だけで支払えるはずはありません。
つまり、非被災者の私たちは、その分、いっぱい、いっぱい、税金を払わなくていはいけません!
そのために、いっぱい働いて、いっぱい生産して、日本を復興させていくのです!
一時的な募金+これから税金を納めるために、いっぱい働かなくてはいけません!
しかし、被災によって、もしくは取引先が被災したことによって、倒産する中小企業の数は、想像以上になると思います。
原発の建設中止が、これからの事故を防ぎますが、その建設を請け負っていた電力会社の下請けの土建業者の人たちは、家族を養うことができなくなります。
その方たちへの保障は、国の財源、つまり税金ということになります。
家や家族を失った、想像を絶する突然の悲しみの中から日々をたてなおさなくてはいけない被災者の方々も、
電力会社の被ばくした社員・過労の社員・救助活動にあたっている方々やその家族の方々も、
非被災者の私たちにも、
本当のシビアな状況は、これから訪れるのです。
しかも、そのシビアな状況は情報統制され、新聞にもテレビにもオブラートに包まれ、既存メディアは政治や経済の策を遂行するのに都合がいいように国民を扇動する情報を流させられることによって、それらは見えない間に進められていきます。
一時期のブームで、すぎる問題ではありません。
そこまで、シビアな状況が、これから日本を待っています。
ただ、希望的な限定条件も、あります。
それは、視点をマクロに。身近に。私たちの暮らしレベルに置いてみることです。
これまでと同じような便利や豊かさを追い求めますか?
これまでと同じような方向での「幸せ」を追い求めますか?
原発をなくしたいのであれば、原発がいらなくなるような生活をしなくてはいけません。
風力発電の風車を山の上に建設するために、山の下から山の上までの森林を、重機が通れるように、どれだけ破壊しながら作らなくてはいけないか、というリスク。
太陽光発電機を作成する段階で、すでにどれだけの電力を投入しないと発電機自体が作成できないか、というリスク。
水力発電所を建設するために、ダムならば山や里を沈め、コンクリートで固め、自然水流を利用するなら、せきを設けることによって変わる潮流がもたらす環境の変化、それによって起こる赤潮など、というリスク。
火力発電所は今まで言われていた通り、化石燃料に依存していて、有限ということもあるけど、ちょっと中東の情勢が不安定になっただけで、相場がつりあがったり、経済が絡むと戦争まで引き起こす、というリスク。
バイオエタノールなども有望とは言われつつも、商品作物の集中生産で、サトウキビなどが育つ低緯度地帯の人たちへの搾取や、その利権争いは戦争さえも引き起こしかねない、というリスク。
これまでの地震と違い、今回は、東京での計画停電、という形で、一番の電力消費地で、日本を動かす中枢の人たちが、肌で「このままじゃいけない」を、まず感じたのではないかと思います。
確かに、毎日の桜島の噴火でも、新燃岳の噴火でも、これだけ東京を動かすことはできなかった。
日本は、第二次世界大戦の後、奇跡的な復興を遂げました。
その頂点が、バブルでした。
日本列島改造計画、とにかく大きな工事、大きなハコづくり、大きなインフラ、道路をどんどん作って、国民が3Cを手にし、もっと世の中が物質的に豊かになる!という希望、つまり、物の消費に経済の成長を託してきた、復興でした。
もちろんその途中で、フラワーチルドレン、ヒッピー思想も発生しましたが、あさま山荘、ウッドストック、いろいろな象徴的な形で、ユートピア思想の限界も内包しつつ、消費社会はバブルを目指して復興を続けました。
ちょうど私たちが子供の頃、そのバブルははじけました。
私たちが就職する頃は氷河期で、いつのまにかリーマンショックで世界経済がばたついて、失業率が上がり、過労死もうつも自殺も増えました。
モノがあふれ、ギラギラと光輝く都会とそこで暮らす人たちの心の闇。
一方で、日曜だか平日だか区別のつかないようなシャッターばかりの田舎町。
今、三十代の私たち。
第二次世界大戦に出兵していた祖父母の時代。
戦後の復興を支えた親世代。
そして、今。
また同じように、今度は原発ではない別のものにすりかえて、巨大な消費を誘うためのデカいもの(もしくは新しく仮想空間というものができましたが)を作ることで、日本は復興を目指すのでしょうか?
目指すところは、もう一度、バブル経済?なのでしょうか?
私は、ほんとうにクッキーを焼いたら焦がすような、掃除もろくにできていないような、しょうもない31歳の、いち女性です。
今日も、主人は疲れの取れない体を引きずって、朝早く出勤しました。
昨日食べた肉じゃがの湯気を見ながら、たいしておいしい肉じゃがでないとしても、あぁ被災地の人たちは、そして疎開やライフラインが混乱している地域の人たちは、また、被ばくの恐怖におびえる人たちは、今夜、肉じゃがは食べれないのかもしれない、そう思ったりもします。
だから、私たちは、食べました。
そして、眠って、主人は出勤しました。
私も、今日はバイトは休みですが、法事やら銀行やら家のことやら、まず家族のために、光の気持ちを家庭に持てるように、がんばります。
偶然にも今日、東京の知り合いが、九州にて、おばあさまの旅立ちに間に合うか、という状況でもあります。
今日は奇しくも私の祖母の7回忌。
すべての、この世での命を全うした方々が、光の中へ導かれることを、祈ります。
また、7年後に家族で集まることへ、その場所を提供してくれることへ、感謝して、何が大切なのか、もう一度考えます。
そんな中、友人たちが、「米、作ろうぜ!」という動きを始めました。
農村部に住む彼らは、何年来か、自分たちで米作りをしています。
田舎には、農業の高齢化によって休耕している田畑がたくさんあるそうです。
被災地は、東北、米どころも多く、また、被ばくなどの被害・または風評被害によって、農作物の生産、日々のご飯の生産ができなくなります。
タイからのあたたかいお米(小さい頃、タイからお米が送られてきたことも思い出します)もあるようですが、今年、来年、再来年、と、継続的に食べものは必要です。
米や野菜をいっぱい作って、余ってるから送るよ~!いつでもおいでよ~!そう言えるようにするんだそうです。
もうジャガイモを去年の倍植えたとか?
彼らだからできること、貨幣経済に乗らないで、人間が生きる根本のメシを余るぐらい作ろうとすること、すばらしいなと思います。
大事なのは、
「被災地のためだけに米を作ろう、自分たちは食べないから」
じゃなくて、
「余ってるから送るよ~!いつでもおいでよ~!」
と、自分たちの生活の延長・余力で継続的支援につなげているところです。
なんだか、言葉にせずとも、光にあふれていると私は思うのです。
彼らは一緒にお祭りをする仲間で、「火が扱える人たち」です。
震災以降、電力にかわってキャンドルを灯していて火災が起こったとか、そういう話をたくさん聞きます。
まだ余震の残る地域では、ろうそくを常時つけておくことは危険です。
いつ起こるか分からないとはいえ、今のところ非被災地の私たちは、「火をつけたら火を守る、つまり目を離さない」という火の扱い方を知っていさえすれば、いいのです。
焚火だって、適切な場所で、火のおそろしさを十分に知っていれば、心も体も芯からあたためてくれます。
その火を扱うことが、人間と自然の接点であり、畏敬であり、原点であるということを言う人も多くいます。
そういうことを、バブルを経て築かれた今の電力と消費に依存した生活と並行して、ちょっと新しい価値観として見てみることはできないでしょうか?
米作り、私もお手伝いに行けたらいいのですが・・・。
今のところ、混乱した流通の中で、主人は日々の仕事を全うするだけで厳しい状態なので、仕事の様子を見ながら、参加できたらと思います。
そして、私が私なりにできること、ちっぽけでしょうもない私なりにできることも、日々模索中です。
思いつくのは、前回も書きましたように、無駄な混乱を避けるとか、日ごろ以上に生産しなきゃいけないぐらいだから、まず自分たちが元気を出すとか、不安の津波を起こさないとか。
今だけじゃなくて、来月、再来月、と献血もしたいのですが、薬を服用しているので、私は残念ながらできません。
企業の策略云々を抜きにしても、ネット上で散らばっている小額のポイントや、そういうちいさな無駄たちが、ちょっとでも助けになるのであればとも思います。
やっぱり、家庭に光をやすらぎを忘れないように、家庭をまず大事にします。
そして、仕事上でも、接する人たちにできるだけ多く、笑顔や元気を広げていくように心がけます。
ユートピアは、何かの先に待っているのではなくて、日々感じる幸せや、日々作り続けていくプロセスの中に、もう存在するものです。
追い求めて、見失わないでください。
ただ、気づいてください!
だから。
元気にいきましょう!
皮肉にも原発に象徴されてしまいましたが、これからの復興のために、大切なことがあります。
大きなものへの批判攻撃ではなく、小さな自分自身の表面ではなく「根本的な」価値観の変化です。
電力を際限なく使う生活を続けるのであれば、原発、もしくはそれにすりかえられた新しい原発的なものが必ず発生します。
それは、先述のどんどん拡大する消費に依存した経済に乗って、今の社会が動いている、動かしようのない事実があるからです。
もう一度、バブルを目指してがんばりますか?
それとも?
それは、何でしょう?
私にとって、何でしょう?
みなさんにとって、何でしょう?
そこに、笑顔だったり、光だったり、そういうものを決して忘れてはいけない。そこだけは、mustです。義務です。
みんなで、元気に行きましょう!
光を、日本中、世界中に!
読んだ方の反響もいただき、ありがとうございます。
今でもずっと「不安の津波」ではなく、「光の気持ち」を持ち、日々を送ろうと、日常の仕事も、修繕作業も続けています。
何より、自分自身や、身近な家族から、希望や光ややすらぎの気持ちを大切にしよう、そこから広げていこう、と意識することに、あえて最大のエネルギーをさいています。
そこがすべての始まりだと思うので。
今日になって思うのは、
まず、継続的支援について。
日本人のすばらしさを賞賛するニュースは、元気と勇気と希望を与えてくれます。
また、とくに雪に耐えて勤勉で我慢強いといわれる東北地方の方々に、同じ日本人として敬意を表しますし、ほんとうは泣き叫びたい気持ちがあることも、分かっています。
いつか、思いっきり、泣けたらいいのに、甘えられたらいいのに、と思います。
あったかいご飯が欲しいよぅ、寒いよぅ、家族を返してよぅ、と。
ほんとうに、抱きしめてあげられるものなら、抱きしめてあげたい。
日本のみならず世界中の隣人たちのあたたかさを感じるし、こういう形ではありますが、協力しあえることは、みんなの意識に対しておおきな影響を与えると思うのです。
戦争と違って、表面上加害者はいませんから、人間同士ならば何のわだかまりもなく協力することができます。
日本人の素晴らしき礼節。
でも、もうひとつ忘れがちなのは、日本人の熱しやすく冷めやすさ。
もう大方の日本人が、新燃岳での被災者のことは、忘れているのではないでしょうか?
鳥インフルエンザや口蹄疫はどうでしょうか?
この混乱期を好機とみなして、裏を知ったらびっくりするようなCMや、さまざまなビジネスがうごめいていることに、みなさん、気付いているでしょうか?
1週間、2週間、1カ月、3カ月。
その期間は、非被災者の日本人が忘れていくのに十分な期間です。
また、そこでひと儲けする業者もたくさん。
寄付はすばらしいし、結果として腐らないお金、というのは、長期的なすばらしい援助になります。
が、一方では、大企業の節税対策という面もありますので、その差引をして、考えなくてはいけないことなのです。
通常、寄付をすると、その分が企業の所得から控除され、つまり、寄付しただけ来年、税金が引かれずに済むんですね。
もちろん企業はこれから混乱するであろう経済状況から、その損得を勘定しているので、あれだけ大規模な寄付ができます。
もちろん、イメージ的なこともありますし。
ただ、その手を使って物資を梱包している社員の方々は、ただただ純粋に、私たちと同じ気持ちで祈りを込めているんだろうと思います。
運ぶ人たちの命がけの様子も想像できます。
結果、大企業の寄付で、企業も被災者も両方ハッピーになれれば、とてもステキなシステムなんですけどね。
そしてさらに先を見据えると、それだけ来年度、大企業が寄付した分、国が税金を徴収できなくなるわけです。
復興に莫大な費用がかかるというのに。
そのために紙幣を増刷しているというのに。
それはただお金が増える~♪という話ではありません。
世の中にお札が増えるほど、一枚当たりのお金の価値が下がります。
ごく簡単にたとえれば、今まで1000円で買えていたお米が、1000円では売ってもらえなくなります。そんな価値のなくなった1000円ぐらいじゃ、この米とは換えてやれないね!となり、いくら給料があがっても、お米代が出せない、そんな感じです。(すごくオーバーなたとえです。こんな状況は回避されると思います。言いたいのは、お金が増える~♪ではない、ということだけです)
それは、国内だけのことではなくて、世界的な経済にも波及します。
国や日銀は、とりあえず増札しましたが、これからその問題にも政治経済的に対処しなくてはいけません。
モノやお金の価値を上下させるのは、経済的な混乱のリスクを大きく抱えた非常手段です。
後々の対処が必要です。
もちろん被災者からは税を徴収している場合ではありません。
通常保険適用外の地震災害ですが、特例で保険金も支払われるようです。
被災者の方々には、ほんとに助かる英断だと思いますが、その財源は、保険会社だけで支払えるはずはありません。
つまり、非被災者の私たちは、その分、いっぱい、いっぱい、税金を払わなくていはいけません!
そのために、いっぱい働いて、いっぱい生産して、日本を復興させていくのです!
一時的な募金+これから税金を納めるために、いっぱい働かなくてはいけません!
しかし、被災によって、もしくは取引先が被災したことによって、倒産する中小企業の数は、想像以上になると思います。
原発の建設中止が、これからの事故を防ぎますが、その建設を請け負っていた電力会社の下請けの土建業者の人たちは、家族を養うことができなくなります。
その方たちへの保障は、国の財源、つまり税金ということになります。
家や家族を失った、想像を絶する突然の悲しみの中から日々をたてなおさなくてはいけない被災者の方々も、
電力会社の被ばくした社員・過労の社員・救助活動にあたっている方々やその家族の方々も、
非被災者の私たちにも、
本当のシビアな状況は、これから訪れるのです。
しかも、そのシビアな状況は情報統制され、新聞にもテレビにもオブラートに包まれ、既存メディアは政治や経済の策を遂行するのに都合がいいように国民を扇動する情報を流させられることによって、それらは見えない間に進められていきます。
一時期のブームで、すぎる問題ではありません。
そこまで、シビアな状況が、これから日本を待っています。
ただ、希望的な限定条件も、あります。
それは、視点をマクロに。身近に。私たちの暮らしレベルに置いてみることです。
これまでと同じような便利や豊かさを追い求めますか?
これまでと同じような方向での「幸せ」を追い求めますか?
原発をなくしたいのであれば、原発がいらなくなるような生活をしなくてはいけません。
風力発電の風車を山の上に建設するために、山の下から山の上までの森林を、重機が通れるように、どれだけ破壊しながら作らなくてはいけないか、というリスク。
太陽光発電機を作成する段階で、すでにどれだけの電力を投入しないと発電機自体が作成できないか、というリスク。
水力発電所を建設するために、ダムならば山や里を沈め、コンクリートで固め、自然水流を利用するなら、せきを設けることによって変わる潮流がもたらす環境の変化、それによって起こる赤潮など、というリスク。
火力発電所は今まで言われていた通り、化石燃料に依存していて、有限ということもあるけど、ちょっと中東の情勢が不安定になっただけで、相場がつりあがったり、経済が絡むと戦争まで引き起こす、というリスク。
バイオエタノールなども有望とは言われつつも、商品作物の集中生産で、サトウキビなどが育つ低緯度地帯の人たちへの搾取や、その利権争いは戦争さえも引き起こしかねない、というリスク。
これまでの地震と違い、今回は、東京での計画停電、という形で、一番の電力消費地で、日本を動かす中枢の人たちが、肌で「このままじゃいけない」を、まず感じたのではないかと思います。
確かに、毎日の桜島の噴火でも、新燃岳の噴火でも、これだけ東京を動かすことはできなかった。
日本は、第二次世界大戦の後、奇跡的な復興を遂げました。
その頂点が、バブルでした。
日本列島改造計画、とにかく大きな工事、大きなハコづくり、大きなインフラ、道路をどんどん作って、国民が3Cを手にし、もっと世の中が物質的に豊かになる!という希望、つまり、物の消費に経済の成長を託してきた、復興でした。
もちろんその途中で、フラワーチルドレン、ヒッピー思想も発生しましたが、あさま山荘、ウッドストック、いろいろな象徴的な形で、ユートピア思想の限界も内包しつつ、消費社会はバブルを目指して復興を続けました。
ちょうど私たちが子供の頃、そのバブルははじけました。
私たちが就職する頃は氷河期で、いつのまにかリーマンショックで世界経済がばたついて、失業率が上がり、過労死もうつも自殺も増えました。
モノがあふれ、ギラギラと光輝く都会とそこで暮らす人たちの心の闇。
一方で、日曜だか平日だか区別のつかないようなシャッターばかりの田舎町。
今、三十代の私たち。
第二次世界大戦に出兵していた祖父母の時代。
戦後の復興を支えた親世代。
そして、今。
また同じように、今度は原発ではない別のものにすりかえて、巨大な消費を誘うためのデカいもの(もしくは新しく仮想空間というものができましたが)を作ることで、日本は復興を目指すのでしょうか?
目指すところは、もう一度、バブル経済?なのでしょうか?
私は、ほんとうにクッキーを焼いたら焦がすような、掃除もろくにできていないような、しょうもない31歳の、いち女性です。
今日も、主人は疲れの取れない体を引きずって、朝早く出勤しました。
昨日食べた肉じゃがの湯気を見ながら、たいしておいしい肉じゃがでないとしても、あぁ被災地の人たちは、そして疎開やライフラインが混乱している地域の人たちは、また、被ばくの恐怖におびえる人たちは、今夜、肉じゃがは食べれないのかもしれない、そう思ったりもします。
だから、私たちは、食べました。
そして、眠って、主人は出勤しました。
私も、今日はバイトは休みですが、法事やら銀行やら家のことやら、まず家族のために、光の気持ちを家庭に持てるように、がんばります。
偶然にも今日、東京の知り合いが、九州にて、おばあさまの旅立ちに間に合うか、という状況でもあります。
今日は奇しくも私の祖母の7回忌。
すべての、この世での命を全うした方々が、光の中へ導かれることを、祈ります。
また、7年後に家族で集まることへ、その場所を提供してくれることへ、感謝して、何が大切なのか、もう一度考えます。
そんな中、友人たちが、「米、作ろうぜ!」という動きを始めました。
農村部に住む彼らは、何年来か、自分たちで米作りをしています。
田舎には、農業の高齢化によって休耕している田畑がたくさんあるそうです。
被災地は、東北、米どころも多く、また、被ばくなどの被害・または風評被害によって、農作物の生産、日々のご飯の生産ができなくなります。
タイからのあたたかいお米(小さい頃、タイからお米が送られてきたことも思い出します)もあるようですが、今年、来年、再来年、と、継続的に食べものは必要です。
米や野菜をいっぱい作って、余ってるから送るよ~!いつでもおいでよ~!そう言えるようにするんだそうです。
もうジャガイモを去年の倍植えたとか?
彼らだからできること、貨幣経済に乗らないで、人間が生きる根本のメシを余るぐらい作ろうとすること、すばらしいなと思います。
大事なのは、
「被災地のためだけに米を作ろう、自分たちは食べないから」
じゃなくて、
「余ってるから送るよ~!いつでもおいでよ~!」
と、自分たちの生活の延長・余力で継続的支援につなげているところです。
なんだか、言葉にせずとも、光にあふれていると私は思うのです。
彼らは一緒にお祭りをする仲間で、「火が扱える人たち」です。
震災以降、電力にかわってキャンドルを灯していて火災が起こったとか、そういう話をたくさん聞きます。
まだ余震の残る地域では、ろうそくを常時つけておくことは危険です。
いつ起こるか分からないとはいえ、今のところ非被災地の私たちは、「火をつけたら火を守る、つまり目を離さない」という火の扱い方を知っていさえすれば、いいのです。
焚火だって、適切な場所で、火のおそろしさを十分に知っていれば、心も体も芯からあたためてくれます。
その火を扱うことが、人間と自然の接点であり、畏敬であり、原点であるということを言う人も多くいます。
そういうことを、バブルを経て築かれた今の電力と消費に依存した生活と並行して、ちょっと新しい価値観として見てみることはできないでしょうか?
米作り、私もお手伝いに行けたらいいのですが・・・。
今のところ、混乱した流通の中で、主人は日々の仕事を全うするだけで厳しい状態なので、仕事の様子を見ながら、参加できたらと思います。
そして、私が私なりにできること、ちっぽけでしょうもない私なりにできることも、日々模索中です。
思いつくのは、前回も書きましたように、無駄な混乱を避けるとか、日ごろ以上に生産しなきゃいけないぐらいだから、まず自分たちが元気を出すとか、不安の津波を起こさないとか。
今だけじゃなくて、来月、再来月、と献血もしたいのですが、薬を服用しているので、私は残念ながらできません。
企業の策略云々を抜きにしても、ネット上で散らばっている小額のポイントや、そういうちいさな無駄たちが、ちょっとでも助けになるのであればとも思います。
やっぱり、家庭に光をやすらぎを忘れないように、家庭をまず大事にします。
そして、仕事上でも、接する人たちにできるだけ多く、笑顔や元気を広げていくように心がけます。
ユートピアは、何かの先に待っているのではなくて、日々感じる幸せや、日々作り続けていくプロセスの中に、もう存在するものです。
追い求めて、見失わないでください。
ただ、気づいてください!
だから。
元気にいきましょう!
皮肉にも原発に象徴されてしまいましたが、これからの復興のために、大切なことがあります。
大きなものへの批判攻撃ではなく、小さな自分自身の表面ではなく「根本的な」価値観の変化です。
電力を際限なく使う生活を続けるのであれば、原発、もしくはそれにすりかえられた新しい原発的なものが必ず発生します。
それは、先述のどんどん拡大する消費に依存した経済に乗って、今の社会が動いている、動かしようのない事実があるからです。
もう一度、バブルを目指してがんばりますか?
それとも?
それは、何でしょう?
私にとって、何でしょう?
みなさんにとって、何でしょう?
そこに、笑顔だったり、光だったり、そういうものを決して忘れてはいけない。そこだけは、mustです。義務です。
みんなで、元気に行きましょう!
光を、日本中、世界中に!